ミズオノオト - Cahier de Mizuho -

2002年に渡仏し7年後にフランスから日本へ逆留学。フランスに行かなければ鍼灸師にはならなかった日本人のブログ。

離別の空白 L'ami qui vit dans le vide.

「今回のノートルダム大聖堂の火事のことではさぞ心を痛めてることだろうね。フランスを愛している君のことだから。」脳梗塞をしてから、メールはあまり書けないという友人Gから珍しくメールが来た。ノートルダム大聖堂が焼けて衝撃を受けている筈のフランス人が、日本人の私の事を案じてメールをくれた。

 

 

昨秋、2018年11月にフランスへ行った。

楽しい事は沢山あったが、とても辛いことがあった。

 

 

私はリヨンというところに長くいて、リヨンには私を娘のように可愛がってくれるNがいた。過去形なのは彼女はもうこの世にいないから。その友人Nは私がフランスを離れる時「荷物をカーブに置いていけば?荷物があれば(私が)帰ってくるでしょう?」と言って、いまだに私の荷物がフランスにある。 フランスを離れてからも何度もリヨンに帰ることができたのは、この友人Nの存在も大きい。

 

その友人Nが2017年秋に急遽。私には大変なショックだった。仕事もあるのですぐに駆け付ける訳にもいかない。でも荷物もある。そんな時にNの旦那さんのGから「いつ来るのか」とメールが来た。11月にパリで学会があるからリヨンにも寄ると連絡。リヨンに数日滞在した。

 

元々旦那さんのGの方が病気だった。心臓病を患っていて脳梗塞にも罹患。NからはGの病気の具合のことでよくメールが来ていた。Gが退院したばかりの時にフランスへ行った。2015年11月。三年前。Nは旦那さんGの看護で憔悴しきっていた。重苦しい空気。

「Gのことも大事だけど、自分のことも大事にしないとダメ!」何度言ったことか。Gは当時、脳梗塞の後遺症でちゃんと会話ができない状態だった。私が発つ時にGが「もう私に会えないかもしれない」とオイオイと大泣きしていた。それがまさかNの方が先に逝くとは。私もショックだったが、Gはそれ以上の喪失。

 

私はNに年齢を聞いたことがなかったが、私の実の母と同じ年齢だったと亡くなって初めて知った。Nの死について整理できていなかったものが、Gに会ったことで形になって私の方はスッキリした。

 

Nが亡くなってから、Gは一日中1人でいるらしい。病気であまり動くことができないし、外に出る気力もないようだ。NがGの世話をしていた時、気が滅入ると言っていたのを思い出した。Gに「友達は?」と聞くと、「蒸発してしまった」と言う。このまま1人でいると頭がおかしくなりそうだと言う。

どうやら、荷物の事よりも私にリヨンに来て欲しかったらしい。

 

最初の夜。

「(私がいると)Nを思い出してしまって頭が混乱状態だ」と言う。私に会えて嬉しいのとショック状態でさぞ頭がフル回転だった事だろう。

恐らくずっと1人でいて寂しすぎたのだろう。「一緒に寝たい」と言い出した。

流石に幾らなんでもそれだと私の方が眠れない。年齢は随分上でも、男女関係以前の問題だ。

「Non」と言うと、 

「そんな事を言った自分が許せない。許してくれ。許してくれ。。。」再び泣く。

 

 2日目。

GがNの形見時計を私にくれた。

その方がNも喜ぶだろうから私に持っていてくれと言われた。

私がそれを付けると、 Gは私の手を撫でる。

Gの気持ちは分かる。でも私は彼の奥さんだったNではないし、Gは私の父親でもない。

Gはずっと1人でいるせいか、病気のせいか、行動が子どものようになっていた。

 

そんなこんなで、リヨンでの滞在は精神的に辛いものだった。Gにとっては蒸発してしまった友達よりも日本から来てくれる私の方がいいらしく、「僕たち2人でいるといい感じじゃない?」と何度も言う。

 

NとGの事を知っている友達の所でGとの一部始終を話した。Nが亡くなってGが辛いのは分かるけど、子どもでもない私が全て背負う必要はないと言われた。そう言ってくれる旧友との再会がどんなに私の重い心を慰めてくれたかは計り知れない。

 

おかしな事に遠い日本からやってきた私がGにとって一番近い存在のようだ。Gがこのまま1人でいれば、孤独がますます大きくなるのは明らか。フランスに独居老人の手助けをする組織はないのか?と友達に聞いた。

「あるけど、それには(私が)勝手に連絡するのではなくGの方から自発的にそういう気持ちにならないといけない。」

 

逃げるようにGの家を発った。もちろん逃げてはいないが、あのような状態のGを1人にするのは辛かった。でも、どうしようもない。嗚咽を漏らして泣くGの姿が目に焼き付いている。子供もいなく親戚も近くにいない。車で1時間30分の所に住む母が一番近いという。

 

Gが「Nの事を忘れる事はない。でもこのままで1人で暮らしていたら自分は狂ってしまうかもしれない。誰か他の人と暮らした方がいいのかもしれない。」と言っていた。

 

そんなGからノートルダムの火事のことでメールが来た。

Nも生前、何か大きな事故があるとすぐにメールをくれた。2011.3.11の東北大震災の時、Nにメールを書いているときにグラっと来た。3.11の最初の揺れの時、「ものすごい地震が来た!」とNにメールを書きながら机の下に潜った。

 

 

GはNより年下。まだこれからの人生がある。自分に勝って生きて欲しい。

そうでないとNも浮かばれない。

 

 

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 写真はリヨンの公園。昔住んでいた所のすぐ横。

ペタンクをやってる。Gも仲間に加わればいいのに。