ミズオノオト - Cahier de Mizuho -

2002年に渡仏し7年後にフランスから日本へ逆留学。フランスに行かなければ鍼灸師にはならなかった日本人のブログ。

人間の持つ根源的な力

長部日出雄『鬼が来た 棟方志功伝 下』を読んでいて、私もそうそうありたい、と感じるフレーズがあった。メモ。

 

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長部日出雄 『鬼が来た − 棟方志功伝〈下〉』人物文庫 学陽書房 1999年12月20日 初版発行 pp. 230-231から引用

 

 「子供は大人になれないし、大人は子供になれない。女は男になれないし、男は女になれないけれども、そのもっと底にあるものが、大事なんですね。夢中になって絵を描いている子供は、別に褒められようとして描いている訳でも、美しく描こうとおもっているわけでも、もちろん醜く描こうとおもっているわけでもない。自分の胸の奥の、そのまたずっと奥にあるものに動かされて、ウソもマコトもひとつにして、好きなように描いている。これは歓喜ですよ。歓喜の大世界ですよ。ぼくは大人だけれども、そういう大世界に浸って遊べる大人でありたい。宮沢賢治氏のような大人に、わたしはなりたい、と思うんですね。・・・・・・」

 熱っぽい志功の話が進むにつれ、男女の先生達の眼には、徐徐に共感の色が浮かんで来た。先生達は、たとえば人間の顔が美しく見えたり醜く感じられたりするようになるのは後年のことで、幼い子供の顔は、みんなそれぞれに魅力的であることを、よく知っていた。どのような偏見も差別も、そこには入りこむ余地がない、美醜の別が生ずる以前の、もっと根源的な生命そのものの魅力。志功の話は、そのことを語っているようにおもわれたのだ。

 

 

分別を持った大人になる前の、物事を見たままありのままを素直に見れるような眼を失いたくない。誰でも自分のフィルター、偏見を持っている。生きていくうちに徐々に持つようになる。日本で育ったら、日本の文化背景、フランスならフランスの文化背景。どういう家庭で育ち、どういう環境で暮らし、どういう人たちと過ごしてきたかによってモノの見方が違う。誰の目からもニュートラルな眼を持っている人はいない。それぞれ自分のフィルターを通して情報を受け取る。

 

私自身も生まれてから今まで見てきた全ての影響を受けて自分独自の感覚が出来上がっている。鍼灸師として色んな人と接していると、同じことを言っても捉え方は十人十色。同じ日本人でもこんなにも違うものなんだといつも思う。

 

 

「美くしいとか醜いとかの別が生ずる以前のもっと根源的な生命力そのものもの」

生きていて、煩わしいこともあって、どうしても嫌な事が頭を離れないこともある。私たちは元々は根源的な力を持っているはず。好きとか嫌いとかの意識が生まれる以前のピュアな世界。ピュアだったひとつの生命体が色んなストレスにさらされて病気になってゆく。分別を持つ。それは共同体で生活するには必要だけど、持ちすぎると「分別」に殺される。

 

現実の世界ではそのままのピュアのままでは社会生活に入り込めない。仕事をするようになれば尚更。根源的感覚から遠ざかるばかり。私にとって芸術はそんな「根源の力」を取り戻す助けをしてくれるものだと思う。心を動かされることで自分が思い悩むことは生命の根源からすれば微々たるもの。

 

コロナでコンサートや舞台、芸術分野も大打撃を受けている。感動して魂の洗濯をする機会が元どおりになってくれるといい。